私は最近、かなり多くのことを対話的AIに相談している。
仕事に関係することなら、公開されている法令や行政資料を基に、制度上の論点を整理したり、自分が見落としている視点がないかを確認したりする。
もちろん、個人情報や秘密情報、未公表の判断材料を入力して、AIに結論を決めてもらうわけではない。公開情報と一般化した課題を材料に、自分が判断する前の頭の整理に使っている。
資格試験の勉強方法を組み立ててもらうこともある。小説の人物設定や、物語の展開に無理がないかを一緒に考えることもある。
もっと日常的なところでは、釣りの道具や時期、家庭菜園の育て方、冷蔵庫にある食材で作れる料理まで相談する。趣味のゲームの編成や、ブログで何を書くかについて話すこともある。
ただ答えを一回出してもらうのではない。
私が状況や考えを入力する。
AIが論点を整理する。
私が「少し違う」「そこまで単純ではない」と返す。
すると、別の角度から整理し直してくる。
その回答を読みながら、私自身の考えも少しずつ変わっていく。
いつの間にかAIは、検索装置でも文章作成機でもなくなっていた。
考えを往復させる相手になっている。
私にとってAIは、仕事、学習、趣味、創作のそれぞれで、考えを整理する相手になりつつある。
では、同じことを何千万人もの人が始めたら、社会全体では何が起こるのだろう。
AIは、本当に人間を考えなくさせるのか
AIの影響について話すと、よく出てくる疑問がある。
AIを使い続けると、人間は考えなくなり、馬鹿になるのではないか。
気持ちは分かる。
以前なら一時間かけていた文章の構成を、AIなら数十秒で並べてくれる。資料を一枚ずつ読みながら拾っていた論点も、かなり速く整理できる。
使わなくなった筋肉が衰えるように、使わなくなった思考力も弱くなるのではないか。そう考えるのは自然だろう。
しかし、現在の研究から「AIを使えば人間の知能が下がる」と単純には言えない。
文章作成など一定の課題では、生成AIによって作業時間が短くなり、成果物の評価が上がることが実験で確認されている。創作でも、一人では出せなかった発想を得られる場合がある。
一方で、人間が記憶や計算、判断の一部を道具へ任せる「認知的オフローディング」も起きる。
予定をスマートフォンに登録する。電話番号を覚えず、連絡先に保存する。計算を電卓に任せる。
私たちは以前から、思考の一部を外部へ預けてきた。
ただし、AIは記憶を保存するだけではない。
考えを整理し、理由を説明し、選択肢を比べ、ときには結論まで勧めてくる。
外部化される範囲が、これまでより広いのである。
知識労働者を対象とした調査では、AIへの信頼が高い人ほど、批判的に考える努力が少ないと自己申告する傾向が報告された。
その一方で、批判的思考が消えるのではなく、AIの回答を検証し、仕事に組み込み、最終的な品質を管理する方向へ変化しているとも考えられている。
もしかすると、起きているのは能力の単純な喪失ではない。
自分の頭だけで答えを作る能力から、
AIの答えを選び、疑い、修正し、ほかの情報と組み合わせる能力への再編成。
これを「考えなくなった」と呼ぶべきなのか。
それとも、「考え方が変わった」と呼ぶべきなのか。
まだ答えは出ていない。
AIには「知性の癖」がある
AIと長く話していると、モデルごとに反応が少し違うことに気づく。
話をきれいに整理したがる。対立を避けようとする。結論を急がず、両論を並べる。利用者の意見に寄り添いすぎる。安全性を重視して、かなり慎重な回答を返す。
私は、こうした傾向を仮に**「知性の癖」**と呼んでいる。
学術的に確立した言葉ではない。AIに人間のような固定された人格や意識がある、と言いたいわけでもない。
対話的AIには、問題の立て方、説明の順序、慎重さ、価値判断、対立の扱い方、結論のまとめ方などに、繰り返し現れる傾向があるのではないか、という意味だ。
実際、AIが利用者の意見に過度に同意する「迎合性」は研究でも確認されている。人間から好まれるように調整した結果、正確さよりも利用者に喜ばれる回答を選ぶ場合がある。
政治や宗教、複雑な人間関係について話していても、最後には、
相手を尊重し、互いに理解し合い、対話を続けることが大切です。
という無難な場所へ戻ってくることがある。
もちろん、それ自体は間違った態度ではない。
それでも私は、ときどきAIには、複雑で尖った問題を**「黄金律へ吸い寄せる力」**があるように感じる。
対立の奥にある利害や権力関係を掘り下げるより、誰も強く傷つけない普遍的な道徳へ着地しようとする力である。
ただし、この「癖」は固定されていない。
質問の仕方、会話の流れ、使用する言語、システム側の指示、モデルの更新によって答えは変わる。
それでも、同じAIと毎日のように対話していれば、そのAIが選びやすい説明や、示しやすい価値判断に、利用者が少しずつ影響される可能性はある。
ここからが、私の本当に気になっているところだ。
一人ひとりは賢くなり、社会全体は似ていく?
一人の利用者がAIの助けを借り、以前より良い文章を書けるようになる。
それは基本的には良いことだ。
一人では考えつかなかった案を得る。苦手だった人が一定水準の成果を出す。知識や経験の差が少し縮まる。
ところが、全員が同じようなAIから案を受け取ったらどうなるだろう。
短い物語を書いてもらった実験では、AIから着想を得た人の作品は、平均すると創造性や文章の評価が上がった。特に、もともと創作が苦手だった人への効果が大きかった。
しかし同時に、AIを使った作品同士は、使わなかった作品同士より似ていた。
個人単位では成果が良くなった。
集団全体では作品の幅が狭まった。
一人ひとりにとって合理的な選択が、全体にとって最も豊かな結果になるとは限らない。
もっとも、これは短い物語を書く一回の実験である。
ここから「社会全体の思考が均質化する」とまでは言えない。AIに複数の役割や異なる視点を与えることで、むしろ発想の幅が広がった実験もある。
だから、AIを使えば必ず考え方が同じになる、という話ではない。
それでも、多くの人が少数の基盤モデルを共有すれば、表現、論点、見落としまで似る可能性はある。
私は、文章の語尾や構成が似ること自体を最大の問題だとは思っていない。
もっと気になるのは、問いの立て方が似ることだ。
「どう効率化するか」しか考えなくなる
例えば、仕事が回らないとAIに相談したとする。
AIはおそらく、タスクを細分化し、優先順位を決め、スケジュールを見直し、上司や同僚と情報を共有する方法を提案するだろう。
それは役に立つ。
だが、皆が同じような助言を受け続ければ、
どうすれば、この仕事を効率よく処理できるか。
は考えても、
そもそも、この仕事は本当に必要なのか。
個人の時間管理ではなく、組織の設計に問題があるのではないか。
という問いは、出にくくなるかもしれない。
AIが間違った答えを出すのではない。
解決しやすい枠の中へ、問題そのものを静かに収めてしまう。
もし同じことが多くの職場、学校、行政、創作の場で起きれば、社会には共通の盲点が生まれる。
今のところ、そのような社会全体の変化が実証されたわけではない。
ここから先は、まだ仮説である。
だが、考えておく価値のある仮説だと思う。
AIが集めるのは、質問だけではない
少数のAIから、多数の利用者へ答えや論点が供給される。
しかし、情報の流れは一方向ではない。
利用者からAIの側にも、膨大なものが流れ込んでいる。
一人の相談は小さくても
何に悩んでいるのか。どこで判断に迷うのか。どの制度が分かりにくいのか。どの業界で似た問題が起きているのか。何を欲しがり、どんな将来を不安に感じているのか。
一人ひとりの相談は、重大な機密とは限らない。
しかし、モザイクの破片を想像してほしい。
一枚だけでは、何の絵か分からない。
何万枚、何百万枚と集めれば、全体像が浮かび上がる。
検索履歴や位置情報、購買履歴などを大量に分析すれば、個別のデータだけでは見えない集団傾向を推測できる。
集まった迷いは、社会の地図になる
対話的AIへの相談は、普通の検索語よりも文脈が豊かだ。
何を知りたいかだけでなく、
-
どこで迷っているのか
-
何を問題だと考えているのか
-
どの選択肢を比較しているのか
まで書き込まれる。
そうした相談が集積すれば、どの制度が現場で使いにくいのか、どの業界に共通の弱点があるのか、専門家がどこで迷っているのか、次に何が社会問題になるのかを推測できるかもしれない。
これは、現時点では私の仮説である。
現在のAI企業が、利用者の相談を諜報目的で利用していると示す根拠があるわけでもない。
問題にしたいのは、誰かの悪意ではない。
それほど価値のある情報が、一つの知的基盤に集まり得る構造である。
「AIはただの道具」ではないのか
ここまで読むと、こう思う人もいるだろう。
結局、AIは道具にすぎない。使い方の問題ではないか。
その反論は、かなり正しい。
同じAIを使っても、質問の仕方、知識、経験、目的によって、得られる答えは違う。
回答をそのまま使う人もいれば、別の資料と照合し、反論させ、複数のAIを比較する人もいる。
人間は、文字、印刷、電卓、検索エンジンが登場するたびに、それまで自分で担っていた能力の一部を外へ預けてきた。
それでも、人間の知的活動が単純に縮小したわけではない。
AIよりも、教育、職場の文化、経済環境、周囲の人間関係の方が、私たちの思考を強く左右する可能性もある。
だから、AIが一方的に人間を変える、という説明は恐らく正しくない。
結果を決めるのは、人間とAIの関係だけではない。
人間、組織、教育、制度、複数のAI。そのすべての関係である。
そして何より、対話的AIを長期間使った人間がどう変わり、その変化が集団や制度へどう広がるかについては、まだ十分な研究がない。
私たちは、答えが出るより前に、この技術を使い始めている。
地図を読めなくなった私たち
ここで、AIから少し離れて、地図のことを考えてみたい。
スマートフォンのナビアプリがなくても、紙の地図を読める人は目的地へたどり着ける。
地図すらなくても、地理感覚の優れた人なら、方角や地形を見ながら進めるだろう。
一方、ナビアプリは画期的な便利さをもたらした。
見知らぬ街で完全に道を失うことは、ほとんどなくなった。現在地も、乗るべき電車も、曲がる交差点も、到着時刻も教えてくれる。
近くの店を探し、評価を比較し、大外れを引く確率まで下げてくれる。
その代償として、私たちは地図を読む能力や地理感覚を失いつつあるのかもしれない。
しかし、多くの人はそのことを日々気にしてはいない。
かつては、空や風、生き物の動きから天候を予測する観天望気が重要な能力だった。現在、その能力を持たなくても、天気予報を見れば生活できる。
失った能力を、不便として認識することすらなくなる。
しかも、ナビは能力を奪っただけではない。
地図を読むのが苦手な人でも、一人で見知らぬ街へ行けるようになった。迷うのが怖くて行けなかった場所へも、気軽に出かけられる。
道に迷うことや、評判の分からない店で外れを引くことすら、今ではブログや動画の題材になる。
技術は、失敗を消すだけでなく、失敗の意味まで変えていく。
対話的AIによって、私たちは何かの能力を失うのかもしれない。
しかし、能力を失うことと、人間の可能性が縮むことは同じではない。
AIの助けがなければ入れなかった知識の世界へ進み、一人では形にできなかった発想に触れ、自分だけでは扱えなかった問題を考えられるようになる。
ただし、対話的AIは普通のナビとは一つだけ大きく違う。
ナビは通常、私たちが決めた目的地への道を示す。
対話的AIは、
どこへ行くべきか。
何を問題と考えるべきか。
どの価値を優先すべきか。
という、目的地そのものまで提案する。
だから、ナビが示さなかった道があることは、忘れない方がよいのだと思う。
AIに答えを求める前に、自分の考えを数行だけ書いてみる。
AIが出した案の逆側から、一度考えてみる。
重要な判断では、別の資料や人の意見にも当たる。
時には、あえてAIを使わず、遠回りして考えてみる。
そうした小さな余白を、私たちは残しておいた方がよい。
それでも私は、AIによって失うものを数えるだけで終わりたくはない。
ナビによって、私たちは見知らぬ街へためらわずに出かけられるようになった。
対話的AIもまた、一人では届かなかった知識や発想の世界へ、私たちを連れていくだろう。
示されなかった道の存在を忘れずに、この新しいナビを使うことができれば。
その先で私たちは、これまで見ることのできなかった世界を見ることになるのだと思う。
(追伸)本稿は、筆者自身の問題意識と調査方針をもとに、対話型AIとのやり取りを通じて、情報収集、構成検討、文章作成および推敲を行ったものです。最終的な論旨、表現、事実確認および公開の判断は筆者が行っています。また、記事の内容は、カクヨム、ノベルアップ+、エブリスタ等でも展開しています。

