震災の時は、鉄山お爺さんと小太郎伯父さんが丸川海岸脇の小さな漁港というか、小さな物揚場があって、そこにいたのですが、地震のとき小太郎伯父さんが漁道具を高台に避難させ、鉄山お爺さんは漁船を沖に避難させるといって海へ出てから戻ってこず、その後は消息を絶っています。
佐々木の家は全部、津波で流され、ニュースで被害を知った、次郎伯父さんが久しぶりに東京から実家のあったところに戻ってきて、随分と一緒にあちこち鉄山お爺さんを探したようですが、結局見つかりませんでした。
佐藤の我が家も1階が波をかぶって、復興区画整理で造成した高台に移転しました。その間、母も伯父さんたちを心配して、何かと手伝いに行っていたのですが、いろいろあって関係が悪くなってしまって。
まだ、話しは続くのですが、佐々木家では小太郎伯父さんが中心になって助成金をもらって、海岸沿いのもとの場所に小さな商店兼住宅を建て直したのですが、これは村が防潮堤計画に賛成する見返りだと後から言い出したようで、いろいろと揉めごとになりました。あの、村役場の佐々木課長も遠い親戚になるのですが、本人は無関係だと言っています。
小太郎伯父さんと次郎伯父さんは一緒になって防潮堤計画に反対し、いろいろと応援する人も出てきたため、防潮堤は計画どまりで実現に至っていません。そして、お爺さんは見つからないし、役場との確執に嫌気がさしたのかわかりませんが、小太郎伯父さんは、漁がしたいと残された漁道具をもって県北の漁師仲間に世話になると家を出ていくことになりました。
それで、宮本の次郎伯父さんが佐々木家の留守を預かる形で居ついています。宮本の伯父さんは、あれで頭もよく、行動力もあって、防潮堤反対のときから東京の知り合いの環境保護団体の方と仲良くされていて、防潮堤計画の顛末を記した次郎の日記というブログを書いたりして、保護団体の方を中心に沢山のイイね!がついて、マスコミにも取り上げられたりしました。それが、逆に、役場からはすっかり目をつけられ、嫌われる存在になってしまいました。
佐々木家で持っている土地は、もともとは二束三文の山だったのですが、その後の自然エネルギーブームの中で、風力も太陽光も両方とも適地ということで自然エネルギー開発計画の槍玉にあがったのですが、これも次郎伯父さんと環境保護団体の活動の結果、頓挫しました。しかし、その開発計画はあとで役場や商工会も繋がっていたとわかり、お互い余計に関係が悪くなっています。
それ以降、次郎伯父さんはより一層環境団体との結びつけを強め、丸川町の人たちからすっかり嫌われものになってしましました。それからは、逆に丸川町の会合とかに積極的に出かけては言いがかりをつけたり、時には町の人たちが見てみぬふりをしていた問題を鋭く指摘するなど、町の人たちの弱みも握ってきたのか、真正面からぶつかろうとする人もいなくなってしまいました。
一時は、やくざな人たちとの関りも噂されましたが、暴力団関係者からの誘いは断ったようで、そのあたりはまだしっかりしているんだと思います。
僕は次郎伯父さんはいい人だと信じています。
震災前、丸川海岸の漁港は数人の漁師がいたのですが、今はもう誰もいません。もともと2家族くらいしかいないような漁港といっても、小さな物揚場のようなところで、揚げた魚も仲買人の人がトラックで乗りつけて隣町の魚市場へ売りにいているような程度でした。
小太郎伯父さんが戻ってきてくれれば、少しは、もとの感じになるのだろうと思いますが、町全体にはあまり影響は無いのかなと思います。
今は丸川町も、役場や会議所を中心にした高台エリアと復興区画整理エリアくらいしかまとまって人がいるところもなく、限界集落って呼ばれているみたいです。僕自身、大学に進学した後、丸川に戻りたいと思っているのですが、どこで働けばいいのかわからないんです。
漁協は無くなってしまいましたし、農協と役場と商工会関係のお店、最近はドラッグストアやコンビニに押されていますが、自動車や機械の町工場、電気機器の工場、復興関係の土建業、消防や警察、そして僕の父みたいに先生になるとか、そんな程度しか思い浮かびません。
震災のあと、僕の小さなころから仲良くしていた友だちもみんな親と一緒にどこかに転出していってしまいました。今は、高校に通って町の新しい友だちと仲良くしているから、いいんですけれど。それでも、一学年2クラスしかなく、住民が戻って来ないと隣町の高校と統合され閉校になるのではないかという話もでているそうです。
それで、今回の丸川海岸祭りの企画を聞いたときに是非かかわりたいと思って実行委員に立候補したんです。そうしたら、ほかに、やりたい人もいなかったみたいで、実行委員長に推薦されて、今日に至っています。
高校の友たちにイベントの反対者はいないのですけれど、もともと夏休み前には学校祭もあって、海岸の企画については初めてのことで準備するのがいろいろと面倒くさいらしいです。でも、僕にとっては一番の地元だし、なんとか成功させたいと思って、それが少しでも、役場や会議の人たちとも仲良くなって、海岸地区から出て行った人たちが戻ってくるきっかけになればと思っていました。
でも、先日の合同実行委員会のワークショップですか。あの参加者の人たちは、あまり、海岸地区のことを気にかけてくれているわけではないんだなって思ったんです。みんな、それぞれ自分の生活の範囲で一生懸命考えてくれているんだとは思いました。でも、何か違うなと思ったんです。
だから、最後に次郎伯父さんが委員長に失礼なことを言ったのはお詫びしますが、僕たちの正直な気持ちでもありました。地元の成り立ちも知らないでよそ者が勝手なことを言うなってことだと思うんです。多分、水着の件も本気ではなかったんだと思うんです。おそらく、委員長を感情的にさせれば、なにかボロでも出すだろうと思った程度だったのだろうと。でも、委員長が冷静に対応したのを見て、あの場では矛を収めたのではないかと僕は思っています。
正直に言えば、このイベントはダメかな、あるいは外部の関係者だけが勝手に盛り上がっているイベントになるのかな、少し諦めの気持ちも混じっていたとき、委員長が丸川海岸を見にきたいという話をされたので、僕は喜んでこの話を受けました。
その後のメールのやり取りなどでも、丸川海岸のことを誠実に考えていてくれているのだということがわかって、今日、この話をさせていただきました、長くなってすみません」